告白



その少女のことを、僕はとても愛しいと思った。
彼女は花や蝶に話し掛け、そうでなければいつも、じっと耳を澄ませていた。
「わたし、何だって知りたいの」
少女は光の中で微笑んでいた。
「だけど、大人たちは信用できない。だってたいていはうそを言うか、黙ってるか、あとは笑ってごまかしているだけなんだもの」
そう言うと、彼女は豊かな髪を風に靡かせて林の方へ駆けて行った。

そこには様々な植物があって、木々の上では鳥たちがいい声で歌った。
光が透けて白い靄の中に淡いブルーの空が見えた。

少女は、木陰で本を読んでいた。厚い皮の表紙の本だった。それは、彼女が読むには少し困難を伴いそうな本だった。それでも、彼女はそこに書かれた活字の列を夢中になって追っている。僕は、そんな彼女を黙って見ていた。少女とそこに重ねられた空間を……。

時は地層のように重なっている。けれど、それは決して一つではない。複雑に入り組んだその現象を表現するには、人類の言語では未だ充分ではない。
少女が開いたページに、僕はそっと栞を挟んだ。そして、その耳に囁く。
――僕を忘れないで
少女はふっと顔を上げて言った。
「今、わたしに話しかけたのはだれ?」
――風
少女は慌てて本を閉じると周囲を見回し、茂みに咲く花々に問い掛けた。
「そこに、かくれているのはだれ?」
しかし、花達は皆知らないと首を振る。
「変ね。わたしには確かに聞こえたのに……」
少女は立ち上がり、林へ続く小道を歩き始めた。

林の奥には少し開けた場所があって、僕達はそこを広場と呼んでいた。木々の間から射し込む光は黄金色。そこから見える空は直接、外宇宙へと繋がっている。吹き込む風が少女の思いを包んで巡る悠久の城だった。
「もしも、あなたが本当に風だと言うなら、わたしに話を聞かせてちょうだい」
少女は両手を広げ、風に向けて顔をさらした。
「ずっと昔の、遠いどこかのお話を……」
好奇心に煌めく瞳。生気に満ちたその顔で、少女は僕を見つめる。
――両手をそっと握ってごらん。ねえ、君は信じるだろうか。世界はこれから始まろうとしているのだと……

それはとても長い話になった。
僕は彼女に語って聞かせた。宇宙の成り立ちと僕と、僕のブルーノートのことを……。
「それじゃあ、あなたは今も追われているの?」
――多分、永遠に
「かわいそう」
少女は涙を流してくれたけれど、厳しいことも口にした。
「だけど、あなたはやっぱり罰を受けなければいけないわ」
――何故?
「この宇宙を解き明かしてはいけなかったのよ」
僕は驚いて彼女を見た。
「そう。だから、あなたは罰を受けるの」
すると、僕の心は拘束された。そう。彼女に渡したブルーノートの欠片が効力を発揮したのだ。けれども、それは、僕にとって新鮮な驚きだった。そうか。身体を区切って制限を加えれば、世界に交じり合うことがもっと容易くなる。身体を固定するにも、常に100%で在る必要はないんだ。逃げてばかりでは消耗するばかり。遙々別の環境に来たのだから、もっと深く人類の生態や文化について考察するのもまた興味深いではないか。そうだ。どうせなら初めからやり直してみよう。
そこで、僕は早速透ける空間の層を見据え、精神をオーバーラップさせるための媒体を探した。僕自身とは違う肉体を持つことで、しばらくの間平穏に暮らせるかもしれない。出来ればそう遠くない未来に生まれて、彼女ともう一度会いたいと願った。
――僕のこと忘れないで
「行ってしまうの?」
――必ず戻って来るよ。君の元へ……
「お願い。一度だけあなたの姿を見せて」
僕は淡いブルーで輪郭を描いた。
「いつ戻って来る?」
――そう遠くない未来に


しかし、次に会った時、彼女は僕のことを覚えていなかった。そして、僕自身彼女を見ても、あまり良い印象を持てずにいた。
長い年月が、僕達の記憶を磨り減らし、変容させてしまったのだ。僕も制限を加えていたし、意識は纏った肉体の表層に置き、それ以外はすべて深層、つまり無意識の底に追いやった。これなら、追っ手に気づかれる確率も遙かに低い。

人生の岐路。僕は西へ向かうか、南に行くべきか悩んでいた。そして、最終的に選んだのは彼女がいる方だった。無意識がそうさせた。僕らは互いにブルーノートの欠片を所持していたからだ。そして、僕らは当然のように引かれ合った。

勝ち気な少女は魅力的な女性へと成長し、僕は固定した肉体を手に入れていた。
「不思議ね。あなたといると、とても懐かしいものを思い出すの」
ある美しい夕暮れに彼女が言った。
「懐かしい? 何が?」
「風……」
林の木は20数年分の年輪を重ねていた。
そこに吹く風はやはり高い空へと吹き抜けて行った。

――忘れないで

「僕は罰を受けて戻って来たんだよ」
そう言う僕の顔を、じっと見つめて彼女は言った。
「罰?」
「そう。ここから見える空は木々の枝に遮られて君と僕と少しの空間しか見えないだろう。僕もそうしたんだ。意識の底で……。だから、僕はもう自由には翔べない。制限されているからね。でも、君に会えた」
「それじゃあ、もう語ってはくれないの?」
「いや、僕はこの体でもう一つ、別の言語を手に入れたからね」

幸せな日々……。
夏の間、僕達は最高の仕事をした。
僕はいつだって君だけを見ていた。
だけど、君はどうだったのだろう?
細やかで気が利いていて、何にでも好奇心を持っている君……。

その林の奥には、広場があって、そこに吹く風は真っ直ぐ空に流れて行った。夜には星も瞬いて、今も宇宙の彼方へ繋がっている。そして、それは君へも繋がって、今僕はここにいる。
「僕は世界を切り取って、君に見せたいと思っている」
だけど、それは遅すぎた。
ほんの僅かな時間のずれが、僕と彼女とを決定的に隔ててしまった。
どれ程の夏を共に過ごしても、僕は外部でしかなく、結局君の家族にはなれなかった。

冬の木枯らしが舞った日に、彼女が残したさよならを噛み締めて、僕は石段の上で佇んでいた。

――あなたは罰を受けなければいけないわ

少女の声で君は言った。
手紙に挟まれていたのは使い古されたブルーノートの欠片……。
知りたがっていた少女は、もう僕を必要としなくなった。

――一度だけ、あなたの姿を見せて

枯れ葉色に染まって行く風……。
僕は疲れていた。
君なしの体ではもう、1秒だってそれを維持することは困難だった。
時代が僕を蝕んで行く……。
僕は君を欲していた。そして、言語とブルーノートを……。
この時代の医学はまだ未熟だった。薬でさえ揃っていない。僕は病んでいた。それでも、僕は彼女のために曲を書いた。届かない君に宛てた思いを……。もしも、もう一度翔べたなら、まだ僕を信じていた頃の君に会いたい……。林の奥で二人、空を見上げていた少女に……。

窓から見えるのは、いつだって灰色の空。君の足音は聞こえない。
いくら望んでも、もう奇跡は起こらないとわかっていた。
なのに、どうして僕はまだここにいるのだろう。
彼女がいなければ、僕がここにいる必要はない。存在価値すら認めない。
でも、もしかしたら……。
僕はもう一度その手紙を調べてみた。欠片は少し失われていた。
ほんの一欠片のブルー。それは今も彼女の所に残されているのだ。
――もしも、あなたが風だと言うなら、わたしに話を聞かせてちょうだい
いいよ。聞かせてあげよう。僕が過ごして来た夏と秋と冬と春のこと……。そして、君のことを……。
知りたがりの君が信じたブルーノートのことを……。人はその気になれば誰でも翔ぶことが出来る。ブルーノートの数式を使えば……。僕はもうすぐこの身体から逸脱する。君もいつかその肉体が限界を迎える日が来るだろう。そうしたら、君が持つブルーノートの欠片を使うといい。そうしたらまた、僕らは何処かの街で遭遇するかもしれない。それはいつかわからないけれど、僕はそんな可能性を信じたい。

――それじゃあ、あなたは今も追われているの?
そう。だから、一つの場所にあまり長くはいられない。だけど、君がヒントをくれたこの方法でなら、ずっと長く留まることが出来る。
次は何処に翔ぼうか。過去でも未来でも構わない。でも、次の街には君がいない。ならば、なるべく悲しみの少ない街へ行けるといいのだけれど……。